2009年06月19日

窒素、リン酸、カリウムを、肥料の三要素と言う

窒素、リン酸、カリウムを、肥料の三要素と言う。特に植物が多量に必要とし、肥料として与えるべきものである。

窒素
主に植物を大きく生長させる作用がある。特に葉を大きくさせやすく、葉肥(はごえ)と言われる。過剰に与えると、植物体が徒長し、軟弱になるため病虫害に侵されやすくなる。逆に、軟らかい植物体を作りたいときは窒素を多用するとよい。
また、窒素はどのような性状の窒素であるかにより肥効が左右される。アンモニア態窒素(硫安、塩安など)は土壌に吸収・保持されやすいので肥効は高い。しかし、土壌でバクテリアにより硝酸態窒素に変化すると土壌に吸収・保持されにくいので流亡してしまいやすい。有機質の肥料や尿素などは土壌でアンモニア態窒素に変化し、さらに硝酸態窒素に変化する。アンモニア態窒素は多用するとアンモニアガスを生じ植物体に障害を与える場合がある。この現象は施設園芸でよりおこりやすい。
リン酸
主に開花結実に関係する。花肥(はなごえ)または実肥(みごえ)と言われる。可溶性リン酸と、く溶性リン酸が植物に吸収される。なお、可溶性リン酸とは、アルカリ性クエン酸アンモニウム溶液に溶けるリン酸で、この中には水溶性リン酸も含まれる。
カリウム
カリとも呼ばれ、主に根の発育と細胞内の浸透圧調整に関係する。根肥(ねごえ)と言われる。水溶性のため流亡しやすいので、追肥で小出しに与えるのがよい。細胞内ではイオンの形で存在するため、細胞が死ぬと細胞外へ流出しやすい。また、植物体内での転流も容易。
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農業、園芸方面では、肥料に関わる物質や記号を化学方面と違った表し方をすることがある。

苦土(くど)
マグネシウムのこと。
加里(かり)、カリ
カリウムのこと。
石灰
生石灰(酸化カルシウム)または消石灰(水酸化カルシウム)または炭酸石灰(炭酸カルシウム)などのカルシウム含有の肥料。文脈によっては元素のカルシウムのことの場合もある。
P
化学方面ではPは元素のリンを表すが、農業、園芸方面ではリン酸塩類を表すことが多い。リン酸と略される。

分類 [編集]
肥料は多くの種類があり、分類の方法も何通りかある。

有機、無機での分類 [編集]
大別して有機肥料と無機肥料に分類できる。両者を混合したものも存在する。両者の成分は大きく異なるが、植物に無機化合物として吸収される点は共通する。

2009年06月01日

日本における視聴率は記録に残っているものでは

1954年に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初。「NHK放送文化研究所」による調査は、1971年に調査方式を配付回収法に変更した。2007年現在では数ヶ月に1回、1週間分の個人視聴率の調査・発表を行っている。

1955年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を開始した(電通による視聴率調査は1963年1月が最終。以後の調査は「ビデオリサーチ」へ引き継がれる)。

1958年には社団法人「中央調査社」が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、1959年には年12回(毎月)に拡大した。1961年4月、「ニールセン」が日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、1962年12月からは「ビデオリサーチ」社も調査を開始した。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式[2]で、調査員が記録テープを回収[3]した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった[4]。

1977年9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」[5][6]を使用し、通信回路(電話回線)を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式[2]による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった[3][4]。

長らくこの「ニールセン」と「ビデオリサーチ」の2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが、2000年3月に「ニールセン」が日本国内における視聴率調査から撤退し、それ以後は、世帯視聴率は「ビデオリサーチ」の測定した結果のみが用いられることとなった。撤退の理由は個人視聴率導入に関して民放キー局と意見が対立したからだとされる。
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日本国外
アメリカでは1950年代以降、視聴率調査はニールセン・メディア・リサーチ社が業務を独占している[7]。調査方法は、アメリカ全国調査は1987年よりピープルメーター方式(それ以前は日記式アンケート)、地域調査は1週間分の日記式のアンケートを郵送する方式に加えて、2003年後半〜2004年前半にピープルメーター方式を導入した[7]。
データの信憑性についての批判
視聴率のデータの信憑性に対する主な批判としては次のようなものが挙げられる。

「ビデオリサーチ」社は調査方法の詳細を公開していないため、信憑性を検証できない。
日本における視聴率調査を「ビデオリサーチ」社が独占しており、他の比較データがない。
調査は世帯単位で行っているので、テレビが一家に何台もある実態に対応できていない。
サンプル数が少ないため、少ない不正件数で大きく数値が変動してしまう。この脆弱性を悪用し、過去に日本テレビ視聴率不正操作問題が起こっており、今後も同様の問題が起こる可能性がある。
データの質についての問題
地域ごとのサンプル数に違いがあるため地域間の単純比較が難しい。
データの誤差が考慮されることが非常に少ない。「ビデオリサーチ」社の調査方法では、標本数600・信頼度95パーセントの場合、視聴率10パーセントの時の誤差はプラスマイナス2.4ポイント、視聴率20パーセントの時の誤差はプラスマイナス3.3ポイントである。つまり、「視聴率20.0パーセント」と発表された場合の視聴率は、16.7-23.3パーセントの間にある確率が95パーセントということである。標本数200の地域ではさらに誤差が大きい。

2009年04月29日

電気式湿度計

電気式湿度計は、半導体等を用いたセンサーを感部とする。機器への組込みが容易なことから、空気調和設備の自動制御や電子式記録・表示装置に接続して用いられることも多い。

最も一般的な電子センサーは、公共的な気象観測に用いられる容量性及び抵抗性のものである。これらはともに感湿体として多孔質のセラミックス又は吸湿性の高分子膜を用いるものである。

容量性センサーは、感湿体を挟む2つの板状電極の間に交流電圧を印加することによって、感湿体の水分吸収に伴う誘電率の変化がもたらす電極間の静電容量の変化から湿度を測定する。抵抗性センサーは、感湿体の水分吸収に伴う導電性の変化を利用する。これらによって得られた計測値は普通の計量器(容量計・抵抗計)やデータ収集ボード (data acquisition board) によって可視化される。

測定原理の性質上、温度変化による誤差を避けられず、気象観測用としては、これを温度変化1℃につき湿度0.2%以内に抑えなければならないため、実際の製品では温度センサーを用いた補正機構を持つことが多い。また、感湿体にフィルターを装着しているとはいえ、表面の汚損等による経時変化が避けられないため、定期的な整備と校正とが必要である。

気象観測用として許容される器差は、湿度±5%(ラジオゾンデ用の場合、湿度10%)である。

冷却式露点計は、観測面を冷却していき、結露を生じた時の温度を測定するものである。低湿度の測定に適する。冷却には、冷凍機・ペルチェ効果による電子冷却・ドライアイス・液体窒素等が用いられる。温度の測定には、熱電対・抵抗温度計等が用いられる。
肉眼判定式露点計 : 鏡の表面の結露の出現・消失点を肉眼で確認するもの。過渡現象であるためばらつきが大きくなる。
自動平衡式露点計 : 観察面の付着量の増減がない平衡状態の温度を測定するもの。平衡状態で測定するため精度が高い。露・霜の量は、表面反射光(光センサーを用いる)、α線吸収量(電離箱を用いる)・共振周波数(水晶振動子を用いる)の変化等を利用して測定する。

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露点式湿度計の感部である塩化リチウム露点計は、塩化リチウム水溶液を塗布した膜の表面における水蒸気圧が周囲の気体の水蒸気圧と等しくなる温度を測定するものである。
グラスウールで覆った金属管に、1対の加熱用電熱線を巻き、その上から塩化リチウム水溶液を塗布する。これに交流電圧を印加して温度を上昇させていくと、水分の蒸発にともなってグラスウール内のイオンが減少していき、電流がほとんど流れなくなる(通電をやめると、吸湿性の高い塩化リチウムは再びイオン化し、電流が流れるようになる)。このとき、グラスウール表面の水蒸気圧と周囲の気体の水蒸気圧とが等しくなっていることを利用して露点を求める。温度の測定には電気式温度計を用いるが、気温の測定の場合と異なり、抵抗体には白金のほかにニッケルを使用することもできる。
気象観測用として許容される器差は、湿度5%(感部のみについて湿度3%)である。

2009年04月13日

恵帝 (漢)

恵帝(けいてい)は前漢第2代皇帝。生年は紀元前213年との説もある。

劉邦が任侠時代に生まれた嫡出子である。その時に、呂雉が田の草取りをしていたところ、老人が通りかかり、劉盈と呂雉と姉の魯元公主の人相を見て、「いずれ高貴な人になるだろう」と劉邦に告げた。劉邦挙兵後は母と共に沛県で留守を守っていた。

楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が大敗して、母や祖父が項羽の軍勢に捕らわれた際に、魯元公主と共に難を逃れて劉邦と再会する。だが馬車で親子ともども逃げる際、劉邦に魯元公主とともに馬車から突き落とされるが、夏侯嬰により救われた。その直後に王太子に立てられ、関中で父の留守を守った。

父・劉邦が皇帝に即位すると皇太子に立てられるが、劉邦と異なり温和な性格が劉邦の不興を買う。そして、劉邦のお気に入りであった戚氏の子の劉如意を皇太子にしようとするために、劉盈はたびたび皇太子の地位を廃されそうになったが、生母・呂雉を初めとする呂氏一族や張良などの支援で皇太子の地位を確保した。劉邦崩御後に恵帝として即位するが、政治は皇太后となった呂雉が専横するものであった。呂雉は後継者を巡る政争で恵帝の有力な政敵であった趙隠王・劉如意やその生母・戚氏等を、復讐として殺害している。呂雉の残虐な行為に衝撃を受けた恵帝は政務を放棄し、酒色にふけり、その乱れた生活のために23歳(26歳などの諸説あり)で崩御した。

後世の評価 [編集]
恵帝はその温和な性格から劉邦の不興を買い、さらに呂雉の横暴・残虐な行為を阻止することができなかった事から、脆弱な人物として評価をされることが多い。他方、自身の廃嫡問題が表面化した際には多くの重臣の支持を獲得し、また劉邦が親征すると、その留守を預かり任務を全うしているという一面も有する。呂雉による劉如意暗殺計画を事前に知ると、自ら寝食を共にして劉如意の暗殺を防止しようとし、また恵帝より上座を得た庶長子の劉肥に対し、呂雉が毒杯を与えようとした際には、その毒杯を自身が手に取って(呂雉があわてて毒杯をこぼし未遂となった)救うなど、惰弱と言うより良い意味で温和な一面も史書に残されている。また、『漢書』の恵帝紀によれば、始皇帝の時代から続いていた焚書を中断させたのは、秦を打ち倒した劉邦ではなく、恵帝である。

宗室 [編集]

后妃 [編集]
張皇后(同母姉魯元公主と張敖の娘、恵帝の姪)

子女 [編集]
少帝恭
淮陽王・劉彊(早夭、諡号は「哀王」)
常山王・劉不疑(早夭、諡号は「懐王」)
少帝弘(襄城侯・劉山 → 常山王・劉義)
常山王・劉朝(はじめは軹侯)
淮陽王・劉武(はじめは壺関侯)
少帝恭以外の子は呂雉がどこからか連れてきた子とされている。

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2009年03月29日

あいづ (列車)

あいづライナーとは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が郡山~会津若松・喜多方間を磐越西線経由で運行している快速列車の愛称である。

前身の特急「あいづ」および「ビバあいづ」、現在臨時列車として運行されている特急「あいづ」についてもここに記載する。

運行区間
郡山~会津若松(1号・臨時の4号のみ、多客期には喜多方まで延長運転)
運転本数
2往復(1・2・5・6号)。また、1往復(3・4号)は、臨時列車で主に土曜・休日に増発される。
使用車両
仙台車両センター所属485系電車…2006年の復活運行で登場した専用の通称「あかべえ」車が使用されている。ただし、検査や特急「あいづ」の運転等の際は、同センター所属の583系電車が使用される場合もある。
なお、全車普通車であるが、1~4号車が自由席、5・6号車が座席指定席となっている(いわゆる盆暮正月等多客時には4~6号車が指定席となる)。トイレは485系が1・3・5号車。583系で運転される場合、短期間の代替運転時は全号車。長期間(全検等)の場合は、会津若松駅構内の汚物処理装置の関係で2・5号車のみ使用可能となり、他の車両のトイレは閉鎖される。ただし、2008年の8月の485系が特急運用のために代走した際にはトイレは閉鎖されなかった
停車駅(括弧内は多客期の1・4号のみの運転)
郡山 - 磐梯熱海 - 猪苗代 - 磐梯町 - 会津若松( - 塩川 - 喜多方)
乗務員(運転士・車掌共通)
あいづライナー1・(3・4)・5・6号…会津若松運輸区
あいづライナー2号…郡山運輸区

沿革 [編集]
この列車は東京と会津地方を結ぶ特急列車であった「あいづ」が元となっており、同列車が廃止されたあとも東北新幹線の接続する列車として運行されていた。そのため、本稿では同区間で運行されていたばんだい、ビバあいづについても記載する。

運行の創始 [編集]
1959年 「ばんだい」・「あいづ」ともに準急列車として運行開始。
「ばんだい」は上野~喜多方間を運行。「あいづ」は仙台~喜多方間の運行。
1960年 上野~会津若松間を運行する準急列車「ひばら」、臨時夜行準急列車「いわしろ」運行開始。
1963年 上野~郡山~新潟間を運行する急行列車として、「いいで」が運行開始。
1961年 準急「ばんだい」が、キハ58系気動車を使用した上野~会津若松間を運行する急行列車に昇格。また 準急「いわしろ」定期列車化により、名称を準急「ひばら」に統合。
1962年 郡山~会津若松間を運行する準急「いわしろ」運行開始。
運行区間は1984年以降の磐越西線の新幹線接続快速「ばんだい」などと重なるが、間合い運用であったとされる。

特急列車の設定 [編集]
1965年 上野~会津若松間を運行する特急列車として「やまばと」運行開始(上野~郡山間は山形発着列車に併結)。
当時は山形発着列車と区別するため、「会津やまばと」とも称され、実際にヘッドマークでは「やまばと」の上に小さく「会津」と記されたとされる。
1966年 準急行制度の変更に伴い、準急「あいづ」・準急「ひばら」が急行列車に昇格。運行経路はともに変わらず。
1967年 磐越西線郡山~喜多方電化に伴い、急行「ばんだい」が455系電車化される。これに伴い、間合い運用で運行された準急「いわしろ」廃止。
1968年 ヨンサントオダイヤ改正に伴い以下のように変更される。
上野~会津若松間を運行していた特急「やまばと」を特急「あいづ」に名称を変更し、上野~山形間運転の「やまばと」と分離して全区間での単独運転を開始。
特急「あいづ」は仙台運転所所属の483系・485系電車を使用。磐越西線の有効長の関係から9両に抑えられかつ食堂車を連結するため上野方先頭車をグリーン車の「クロ481形」とした。
仙台発着急行列車の名称を「あいづ」から「いなわしろ」に変更。また、運転区間を仙台~喜多方・会津線会津田島・只見線只見間に変更。
この列車の詳細はこちらを参照のこと。
急行「ひばら」を急行「ばんだい」に統合。
1978年、「あいづ」食堂車連結廃止。食堂車サシ481形に代わりサハ481形100番台付随車を連結し座席数を増強。
また、電車特急にイラストマークが登場し、「あいづ」でも仙台所属のクハ481形200番台・300番台に用意されたが、9両編成を組む編成は上野側はすべてクロ481形のため、仙台側もほとんどの編成が原則ボンネット形であったため、見られることは稀であった。
1982年 東北新幹線開業により以下のように変更される。
急行「いいで」は廃止。
急行「いなわしろ」は快速格下げ。
急行「ばんだい」1往復を除き郡山発着となる。
特急「あいづ」の使用車両を仙台運転所か南秋田運転所(現・秋田車両センター)に移管。「つばさ」で秋田から上京した編成の間合い運用として使用された。
1984年、「ばんだい」上野~郡山間廃止。全列車郡山駅発着の快速列車となる。これ以降、「ばんだい」が都市間連絡の主力として設定されるようになった。

1990年、「ばんだい」の一部列車に 「ばんだい」のグリーン席・普通車座席指定席連結編成の運用を開始。
この「ばんだい」は郡山~会津若松・喜多方間を1日3往復していた。ただし、使用編成は455・457系電車S-40編成の1編成のみが使用されていたため、検査の際の代走に「ばんだい」が全車両普通車座席自由席として運行されていた。
1992年、「あいづ」山形新幹線開業に伴い送り込み列車である在来線「つばさ」が廃止されたため、勝田電車区(現・勝田車両センター)に移管し7両編成に短縮。

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2009年03月14日

建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)

「建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群」は、ベルギーの首都ブリュッセルにあるユネスコ世界遺産のひとつ。建築家ヴィクトル・オルタは19世紀末から20世紀初頭にアール・ヌーヴォーと建築を見事に融合させた人物で、当時ブリュッセルで活動したアール・ヌーヴォー建築家たちの中心的な存在であった。彼の手がけた邸宅は数多かったが、世界遺産に登録された4件には、彼の革新性がよくあらわれている。

当時のブリュッセルの住宅は、入り口は常に正面横にあり、側面の廊下が長く伸びていた。この廊下に面した3つの部屋のうち、真ん中にあった部屋は光が差し込まず、暗いものであった。これに対してオルタは、部屋の配置を工夫してガラスを効果的に利用することで、邸内に光をうまく取り込んだ。また、材質には鉄、ガラスなどを好んで用い、デザイン的には曲線を多用することで、美しい内部空間を演出した。
美術館になっているオルタ邸以外は私邸なので、一般観光客には公開されていない。

タッセル邸 [編集]
タッセル邸(Hôtel Tassel ; 世界遺産 ID1005-001)は1893年から1894年に建築された邸宅で、ブリュッセルのジャンソン街6番地 (rue Paul-Emilie Janson 6) にある。ブリュッセル自由大学教授タッセルの依頼で建造されたものであり、アール・ヌーヴォーと建築の融合を成功させた最初の成功例と見なされている。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

ソルヴェー邸 [編集]
ソルヴェー邸 (Hôtel Solvay ; ID1005-002) は、1895年から1903年にかけて建築された邸宅で、ルイーズ大通り224番地 (avenue Louise 224) にある。依頼者であるオルタのよき理解者アルマン・ソルヴェー (Armand Solvay) が、資金に糸目をつけなかった上に何の注文もつけなかったために、オルタがその創造力を遺憾なく発揮できた。このことから彼の最高傑作のひとつと見なされている。

ヴァン・エドヴェルド邸 [編集]
ヴァン・エドヴェルド邸 (Hôtel van Eetvelde ; ID1005-003) は、1897年から1901年に建築された邸宅で、パルメルストン大通り4番地 (avenue Palmerston 4) にある。コンゴ自由国の secrétaire général だったヴァン・エドヴェルドの依頼で建造された大邸宅である。

オルタ邸 [編集]
オルタ邸 (Maison & Atelier Horta) は、アトリエと住宅を兼ねたオルタ自身の邸宅である。アメリカン通り23番地から25番地 (rue Américaine 23-25) にあり、1898年から1901年に建築された。現在はアール・ヌーヴォーに関する美術館として、一般に公開されている。

2009年02月09日

チュニジアの歴史

チュニジアの歴史(チュニジアのれきし フランス語:Histoire de la Tunisie)では、現在のチュニジア共和国に相当する地域の歴史について述べる。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

現在のチュニジアに当たる地域には紀元前10,000年頃に西アジアから原地中海人種とされる人々が移動してきた。彼等はベルベル人の祖先だったとされ、彼等の文化はカプサ文化と呼ばれている。紀元前4,000年ごろにサハラが乾燥し、砂漠化した。

先史時代以降、内陸部にはベルベル人が居住するようになっていたが、沿岸部には地中海交易で活躍していたフェニキア人が、交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にカルタゴ市(ティルスの植民市)が建設された。カルタゴ帝国は商業を拡大する中で地中海やアフリカ沿岸に探検や入植市建設を行い北アフリカやシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島、バレアレス諸島、イベリア半島東部に植民市を築き、勢力下に置いた。「アフリカ」は古代においては現在のチュニジアに当たる地域のみを指す言葉だったが、後にアフリカ大陸全体を指す言葉となった。

紀元前6世紀からシチリア島を巡って在地のギリシャ人植民市と対立し、三次に渡るシチリア戦争が繰り広げられた。紀元前264年からイタリア半島で勢力を伸ばしたローマ共和国との三次に渡るポエニ戦争を繰り広げた。第一次ポエニ戦争では敗戦によってコルシカとサルデーニャを失った。第二次ポエニ戦争ではハンニバル・バルカに率いられたカルタゴ軍がアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、ローマを存亡の危機に脅かしたが、ローマが態勢を立て直すとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍がアフリカに上陸し、ザマの戦いでハンニバルを破ってカルタゴは敗北した。敗北したカルタゴはアフリカ以外の全ての領土を喪失し、多額の賠償金を課せられたが、カルタゴは驚異的な速度で復興し、賠償金を完済した。カルタゴの復活を恐れたローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを征服し、紀元前146年にカルタゴは滅亡した。

ローマ帝国属州アフリカ
カルタゴの遺跡。現存するカルタゴの遺構はローマ期に再建されたものであるカルタゴが滅亡すると、領土は全てローマのアフリカ属州に組み込まれた。ローマ共和国の統治下でカルタゴ市は再建され、北アフリカの中心都市として栄えた。ローマ風の建築物が建てられるなどローマ化が進み、キリスト教も普及していった。

ローマ帝国の東西分裂後、チュニジアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。5世紀になるとゲルマン系のヴァンダル人が侵入し、ヴァンダル王国が建国された。ヴァンダル王国は一時西地中海の制海権をおさえて繁栄したものの、534年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって滅ぼされ、これ以降は東ローマ帝国に組み入れられた。

7世紀からイスラーム勢力のウマイヤ朝がチュニジアにまでジハードを敢行し、アラブ人の侵入が進んだ。640年以来カルタゴはアラブ艦隊の攻撃を受けるようになり、670年にはアラブ人支配地域でカイラワーンが建設された。東ローマ帝国とベルベル人は共同でアラブ人と戦ったが、695年にカルタゴはウマイヤ朝によって攻略された。697年に東ローマ帝国がカルタゴを再攻略するも、698年にアラビア人がカルタゴを再奪取し、紀元前から続いたローマ人のアフリカ支配は終焉した。

チュニジアのイスラーム化
イスラーム世界の拡大征服後、この地域の中心はカルタゴからカイラワーンやマフディーヤに移動した。チュニジアはアラビア語でイフリーキヤと呼ばれるようになり、イスラーム教徒のアラブ人が土着のベルベル人を支配したことで、この地域のイスラーム化、アラブ化が進められた。チュニジア征服後アラブ人は西進し、スペインに達して西ゴート王国を征服した。737年にはザイトゥーナ大学が創設された。

その後アッバース朝の支配下に入ったが、アッバース朝カリフの指導力低下にともなって、9世紀のアグラブ朝、10世紀のファーティマ朝などが台頭した。とりわけファーティマ朝はエジプトにまで勢力を伸張させ、建国当初よりカリフを称してアッバース朝との対立姿勢を強く打ち出した。その後も10世紀末からのジール朝などが成立したが、在地の王朝はモロッコから勢力を伸ばしたムワッヒド朝の征服下に置かれた。

ハフス朝時代(1229年-1574年)
1229年にムワッヒド朝の統治からチュニス総督だったハフス家のヤフヤーが独立し、ハフス朝が成立した。ハフス朝成立以来、チュニジアの中心はチュニスとなった。初期のハフス朝はシチリア王国を統治していた神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と友好関係を結び、ジェノヴァやバルセロナの商人との通商関係を築いた。ローマ教皇とアンジュー伯シャルルによってホーエンシュタウフェン朝が滅亡すると、シャルルはシチリアの支配を盤石にし、地中海帝国構想を実現するために兄のルイ9世にチュニジアへの十字軍を要請した。1270年の第8回十字軍では、カペー朝フランス王国の聖王ルイがチュニジアに侵攻したが、ルイ9世は病死し、スルタンムスタンシルによって十字軍は撃退された。

西はアルジェにまで至る領域を支配したハフス朝だったが、14世紀に入るとハフス朝内で諸勢力が分立し、1347年にはモロッコのマリーン朝にチュニスを奪われるにまで弱体化が進んだ。1370年に即位したアブールアッバースはハフス朝の再統一事業を行い、1394年に即位したアブー=ファーリスによってハフス朝は再び北アフリカの強国となった。1492年にレコンキスタによってスペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼすと、北アフリカ一帯に亡命アンダルシア人が流入し、チュニジアにもアンダルシアのムスリムやユダヤ人(セファルディム)が定着した。16世紀に入ると領内の分裂が加速し、トレムセンのザイヤーン朝がスペインの攻撃によって弱体化すると、1533年にアルジェを支配していたバルバリア海賊のバルバロス・ハイレディンはオスマン帝国に臣従した。アルジェリア方面から攻撃を開始したオスマン帝国からの防衛のために、1535年にハフス朝はスペインの保護国となったが、オスマン帝国の勢いは止まらずに1550年にトレムセンが陥落し、ザイヤーン朝が滅亡、1574年にはオスマン帝国軍によってチュニスが陥落し、ハフス朝も滅亡した。

ハフス朝の統治下では『歴史序説』を著した歴史家イブン・ハルドゥーンなど優れた学者が現れ、チュニスは北アフリカの学問の中心地として栄えた。

オスマン帝国領時代(1574年-1881年)
1574年にハフス朝は滅亡し、チュニジアはオスマン帝国の属領となった。当初オスマン帝国は「ベイレルベイ」(パシャ)と呼ばれる軍司令官をチュニジアに派遣したが、オスマン帝国の弱体化が進む中で、「ベイ」を名乗るトルコ系の軍人たちはパシャから権力を奪取し、イスタンブルのオスマン政府から独立した統治を行うようになった。ベイの地位は世襲化され、1613年にムラード朝が成立した。1705年にムラード朝が滅亡すると、同年フサイン朝が成立した。こうして成立した王朝はオスマン帝国に貢納を支払い、形式的にオスマン帝国のスルタンにベイの称号を受けた。この時期にほぼ現在のチュニジアの領域が確立した。また、トルコ系の軍人が重用され、土着民は政治から遠ざけられた。

フサイン朝はフランス統治時代を挟んで252年間に渡り統治を行うが、19世紀前半より東から1835年に当地で自立していたカラマンリー朝リビアを再征服したオスマン帝国の圧力が強まり、西からは1847年にアルジェリアを征服したフランスの圧力が強まる中で、チュニジアは独立を維持するために、エジプトのムハンマド・アリー改革やオスマン帝国のタンジマートに倣った富国強兵政策などの近代化政策を図った。

1824年に即位したフサイン2世は、1831年にチュニジアの国旗を制定した。

1837年に即位したアフマド・ベイは中央集権化を進めると共に、税制改革、徴兵制の導入、服装のヨーロッパ化、士官学校の建設、ザイトゥーナ大学(737年創設)の改革、常備軍の新設、国立工場の建設、フランス人軍事顧問団の受け入れなど富国強兵政策を実現した。また、1846年に奴隷輸入の禁止も実現され、フランスよりも早かった奴隷制廃止の実現は、フランスの奴隷制廃止論者であり、後に第二共和政下で奴隷制廃止を実現したヴィクトル・シュルシェールに大きな影響を与えた。[1]

ハイルディーン・パシャ近代化=西欧化政策はアフマド・ベイの没後も続き、1859年に即位したサドク・ベイの時代には改革派の官僚だったハイルディーン・パシャが主導権を握り、フランス領事のレオン・ロッシュの助言を経て近代化=西欧化が進められた。1861年には憲法(ドゥストール)が施行され、チュニジアは近代的な議会や裁判所が備わった立憲君主制国家となった。この憲法はオスマン帝国のミドハト憲法より15年早く、サドク・ベイはイスラーム世界・アフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、1864年に改革による増税や英仏の干渉に反対して民衆蜂起が勃発すると、改革派が責任を取る形で失脚し、守旧派が復権して憲法は停止された。富国強兵政策による借款も大きな負担になり、1869年には財政破綻へと追い込まれ、チュニジアは英仏伊による財政管理国家に転落した。

1873年にハイルディーンは復権し、首相として財政の健全化のための改革を進め、サディーキ校の創設などがなされたが、1877年に守旧派によるクーデターでハイルディーンが失脚すると、チュニジアの自力更生は不可能な状態となった。

既に19世紀半ばより西の隣国アルジェリアはフランスによる植民地化が進められていた。一方、1861年にリソルジメントを達成した対岸のサヴォイア朝イタリア王国もチュニジアを狙っており、ハイルディーンは列強間の対立を利用して独立を維持しようとしていたが、1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスがチュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジアにおけるフランスの優先権が確認された。こうした状況下でフランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領となった。

フランス植民地時代 (1881年-1956年)
フランス保護領チュニジアの国旗
枢軸軍の捕虜
カルタゴにて指揮を執るシャルル・ド・ゴール(1943年6月)チュニジア侵攻の結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人の総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。

植民地化後、フランス人農園主によって小麦やオリーブのプランテーションが開発され、イタリア人農民と競う形でフランス人農民が入植し、多くの土地が入植者の手に渡った。1880年にフランス資本によってリン鉱石の採掘が開始され、リンはチュニジアの主要輸出品となった。

1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設された。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、チュニジアからも若年男性が労働力や兵士として徴用された。戦後、青年チュニジア党はチュニジア人の市民権の承認、チュニジア人の政治参加、立憲君主制の憲法を制定することを目標に活動を始め、1920年にチュニスで「ドゥストゥール党(立憲党)」に発展的に解消した。ドゥストール党とフランス政府との交渉の結果、1921年3月にチュニジアの戒厳令が解除された。間もなくドゥストール党から改革党が分裂した。1922年にはナスール・ベイが自らチュニジア人の要求を代表してフランスに憲法制定を要請し、フランスは妥協案として一定の改革を施した。1926年にはパリでフランス共産党の影響を強く受けたアルジェリア人労働者とチュニジア人労働者が共同で「北アフリカの星」を創設し、チュニジアにも反帝国主義思想と社会主義思想がもたらされた。

1921年にチュニジアの人口は2,093,900人に達し、フランス人の比率は総人口の2.6%に達した。総人口の内、約7.4%がヨーロッパ人だった。[2]

1929年の世界恐慌により、資本主義経済が浸透していたチュニジアの経済も大打撃を受けた。1930年にはカルタゴでアフリカ大陸初のカトリック聖体大会が開催されたが、この措置はイスラーム教を奉ずる大多数のチュニジア人の不満を呼んだ。1934年にドゥストール党は分裂し、ハビーブ・ブルギーバの指導する「新ドゥストゥール党」はチュニジアの完全独立を要求した。ブルギーバは同年9月に逮捕された。

1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年にナチス・ドイツの侵攻によって第三共和政が崩壊すると、フランス本土ではヴィシー政権が誕生した。当初チュニジアはシャルル・ド・ゴールの自由フランスの呼びかけに応じず、ヴィシー政権の指導下に入った。1942年11月に北アフリカ戦線のドイツ軍とイタリア軍がエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗れると、独伊両軍は同年中にチュニジアにまで敗走した。チュニジアは両陣営の戦場となり、連合軍がチュニジアの枢軸軍を破るのは翌1943年5月のことだった。

獄中のブルギーバはドイツ軍により釈放され、枢軸国への協力を要求されたがブルギーバはこれを拒否した。一方、チュニジアを統治していたモンセフ・ベイはヴィシー政権との関係のためにドイツ軍の要求を受け入れざるを得ず、このために連合軍によってチュニジアが自由フランス領になると、自由フランス政府はモンセフ・ベイを対独協力の罪で退位させた。これ以降、チュニジア独立運動の指導者はベイからブルギーバと新ドゥストゥール党に移ることになる。

1945年にブルギーバは亡命したが、新ドゥストゥール党はチュニジア労働総同盟と結びついて独立運動の主導権を確立し、フェッラーグ(匪賊)と呼ばれるゲリラ組織を指導してフランス政府に対してゲリラ戦で対抗した。1954年に第一次インドシナ戦争がフランスの敗北で終わると、フランスのピエール・マンデス・フランス首相はチュニジアに内政上の自治を認める協定を決議した。帰国したブルギーバは新ドゥストゥール党内で反ブルギーバ派の代表だったサラー・ベンユースフを解任し、党をまとめた。折しもモロッコで独立運動が高揚しており、フランス政府は王制を維持することを条件にモロッコの独立とチュニジアの独立を認めたために、1956年3月20日にムハンマド8世アル・アミーン国王を擁してチュニジア王国は独立した。

独立と現代チュニジア(1956年-)

初代大統領 ハビーブ・ブルギーバ独立後、王国の初代首相にはブルギーバが選ばれた。翌1957年にブルギーはベイを否定して共和制宣言を行い、大統領制が採用され、チュニジア共和国が成立した。こうして首相から横滑りで大統領となったブルギーバは、1958年の新ドゥストゥール党大会で党と政府を完全に掌握し、同年ヨーロッパ人所有地の国有化政策が発表された。1959年には憲法を制定して社会主義政策を採用した。

チュニジアは独自のドゥストール社会主義を採用したものの、ブルギーバの現実的な政策から対外政策は穏健なものになった。独立当初のフランスとの関係は例外的に悪化し、アルジェリア戦争中の1961年にフランス軍とチュニジア軍が衝突したが、1963年9月にチュニジアのビゼルト基地からフランス軍が撤退すると、以降ブルギーバは親欧米政策に徹した。第三世界諸国との関係では、アラブ世界との関係においては1958年にアラブ連盟に加盟した。チュニジアはエジプトのナセル主導の汎アラブ主義には反発しつつも1967年の第三次中東戦争と1973年の第四次中東戦争ではアラブ側で派兵した。1982年のレバノン内戦により、パレスチナ解放機構(PLO)がレバノンを追われると、PLOの本部がチュニスに移動した。アフリカ世界との関係においては、1963年のアフリカ統一機構(OAU)の原加盟国の一国となった。

内政面では社会主義思想とブルギーバによる社会主義に影響を受けたイスラームの教義の独自解釈によって、重婚の禁止、離婚法の制定、ラマダーン(断食)の最中の労働の合法化など世俗的な改革が進められた。1962年から三カ年計画が実施され、フランスとの激しい対立政策により、フランスからの援助が得られなくなったためにアメリカ合衆国や東ヨーロッパ諸国などの援助により、インフラストラクチュアや教育の拡充が進められた。経済面では1964年に南部で油田が発見され、チュニジアも産油国の一員となった。アフマド・ベンサラー経済相による農業の集団化が進められたが、累積債務の増加など経済政策の失敗が明らかになると1969年にベンサラーが解任され、社会主義経済政策は終焉した。

1969年にブルギーバは体力の衰えから首相職を設置した。1970年に自由主義者のヘディ・ヌイラが首相に就任すると、チュニジアの経済政策は自由主義に路線変更した。1974年1月にはリビアのカダフィ政権と相互にチュニジア・リビア両国の合邦を宣言し、アラブ・イスラム共和国(チュニジア・リビア連合)の成立が宣言されたが、同年中に崩壊した。この措置にはマスムーディ外相をはじめとするマシュリク(東方アラブ)諸国との友好を求める勢力の意向があった。

ヌイラの政策も当初は石油輸出や観光業の振興によって経済が安定したが、1978年の「暗い木曜日事件」と、1980年のリビアで訓練されたチュニジア人武装組織がガフサを襲撃したガフサ事件によってヌイラは失脚し、後を継いだムザーリー首相は事実上の一党制から複数政党制への移行を約束した、しかし、複数政党制への移行は実現せず、1983年にはチュニスで食糧暴動が発生するなど社会不安が高まり、この事件による経済低迷により、ムザーリーはブルギーバに解任された。

第二代大統領 ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー後任のスファル首相が1987年に解任された後、同年10月にブルギーバはベン・アリーを首相に任命したが、高まる政治不安への国民の不満を背景に行われた同年11月の無血クーデターによってブルギーバはベン・アリーに解任された。当時84歳だったブルギーバは終身大統領を辞し、ベン・アリーが大統領に就任した。

ベン・アリーは1988年に憲法を改正して複数政党制を認め、経済面でも世界銀行の構造調整計画を受け入れて経済の再建を行い、1970年代半ばから続いていた政治的危機も克服した。このような功績によりベン・アリーは1989年の選挙で再選された。しかし、同時にあった議会の選挙では国会は与党が全議席を独占し、事実上の一党制の継続が確認された。

1991年の湾岸戦争ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1993年にははじめて野党の出馬が許された選挙が実施された。1990年代には隣国アルジェリアでイスラム原理主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、原理主義組織は厳しく弾圧された。

2002年にはアフリカ連合(AU)の原加盟国となった。

現在では、イスラム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。

2009年01月23日

アイテムは基本的に取ったその場で効力を発揮する

アイテムは基本的に取ったその場で効力を発揮する。体力を回復させる肉は背景のブロックの中に埋まっていたり、特定のポイントに移動することで出現するなど隠しアイテム的な存在と言え、これを探すこともゲーム攻略のポイント。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

クサリ
メイン武器であるムチは初期状態では威力も低くリーチも短い革のムチだが、このアイテムを1つ取るとチェーンムチになり威力が上昇、2つ取るとロングチェーンムチになりリーチも伸びる。
ドル袋
スコアがアップする。
ハート
サブウェポンの使用に必要なハートが1つ増える。
ビッグハート
サブウェポンの使用に必要なハートが5つ増える。
ロザリオ
画面上の敵が全て消滅する。
透明薬
黄色のビン。一定時間透明になり敵からダメージを受けなくなる。

体力を6メモリ分回復させる。
宝箱
スコアがアップする。特定ポイントに移動、または一定条件を満たすと出現する隠しアイテム。
サブウェポン
↑+Bボタンで使用。懐中時計以外はハートを1つ、懐中時計はハートを5つ消費する。別のサブ武器を取ると取得中の武器は無くなり、連射アイテムも取り直しになる。
短剣
前方に向け一直線に飛ぶ武器。スピードは速いが、威力は低く敵の貫通もしない。
オノ
放物線を描いて飛び、敵を貫通する武器。上空の敵を倒すのに便利。
聖水
聖なる水が入った瓶。敵を貫通して落下し、接地すると燃え上がる武器。射程は短いが炎で連続でダメージを与えられるため威力が高い。
クロス
十字架。直進し、敵を貫通しながら飛行し、ある程度の距離を進むと手前に戻ってくる武器。
懐中時計
敵の動きを少しの間止める。ハートを5つ消費する。ブロック3以降のボスには効果が無い。停止中はBGMも止まり、時計の秒針のSEのみになる。
連射アイテム
II連射
同じサブウェポンで連続して10回攻撃すると出現。壁を壊すと出現することもある。初期状態ではサブウェポンは画面内に1つしか存在できないが、このアイテムを取ると2発まで連射できるようになる。
III連射
II連射取得後、同じサブウェポンで10回攻撃すると出現。サブウェポンを画面内に3発まで連射できるようになる。

キャラクター
シモン・ベルモント
先祖伝来の聖なる力を秘めたムチを扱うヴァンパイアハンター。本作品の主人公。『悪魔城伝説』以降は「ベルモンド」に変更されている。詳しくは悪魔城ドラキュラシリーズの登場人物を参照のこと。
コウモリ
ヴァンパイアの眷属ともいえる存在。前方からふらふらと飛んでくるタイプと、天井にぶら下がっていて、シモンが接近すると飛び立つタイプがいる。
ゾンビ
蘇った死体。直進するだけの単純な動きしかしないが、群れをなして襲ってくる。
黒ヒョウ
普段は静止しているが、シモンが接近すると素早い動きで襲い掛かってくる。
半魚人
水辺に生息しているモンスター。水中から飛び上がり、火弾を吐いて攻撃してくる。
吸血コウモリ
巨大なコウモリ。空を飛びまわりながら火弾を吐いて攻撃してくる。ブロック1のボス。
アーマー
動き出した鎧。動きは遅いが防御力が高い。
スモールメデューサ
メデューサの眷属。メデューサヘッドとも言う。サインカーブを描いて飛行する。
骨柱
動物の骨が組み合わさったモンスター。動かないが、口から火弾を吐いて攻撃する。耐久力が高い。
メデューサ
巨大なメデューサの首。髪の毛になっている蛇で攻撃してくる。普段は彫像に姿を変えている。ブロック2のボス。
ホワイトスケルトン
骨だけのモンスター。一定の距離を保ち、骨を投げて攻撃してくる。
カラス
不定期に飛行するためコウモリよりも厄介。
せむし男
ジャンプをしながらトリッキーな動きで攻撃してくる。SFC版『悪魔城ドラキュラ』以降は自主規制で「のみ男」に変更されている。
ミイラ男
ブロック3のボス。包帯を飛ばして攻撃してくる。2体いる。
ホワイトドラゴン
骨だけのドラゴン。火弾を飛ばして攻撃してくる。頭以外を攻撃してもダメージにならない上、耐久力が高い。
大ワシ
中庭に出現する巨大な鳥。せむし男を運んでくる。大きい割には一撃で倒せる。
フランケンシュタイン
せむし男とコンビを組んで出現するブロック4のボス。せむし男は攻撃しても動きが一時的に止まるだけで倒せない。
レッドスケルトン
血の色をした骸骨。攻撃して倒したと思っても一定時間経つと復活する。
アックスアーマー
盾と斧を持った鎧。斧を上下に投げ分け、盾でクロスを弾き、耐久力が高い強敵。
死神
悪魔城の副官。ブロック5のボスとして登場。多数の鎌を発生させ投げつけてくる。死神との対決は多くの作品で高難易度を誇った。
ドラキュラ
強大な力を持つ魔王。ゲーム中では最後の敵。初期の設定では100年に一度復活するとされた。一定のダメージを与えると変身する。

シリーズとその変遷

シリーズ及び関連作品
世界設定の不一致等からシリーズに含むかどうか議論される作品もあわせ、ここでは関連作品をリストアップした。以下、作品名(日本国外で発売されたタイトルは英語での題名も記する)・発売日・対応機種の順に記す。発売元や制作元が表記されていない作品は、全てコナミ(先述の様に、持株会社化以降はKDE-J)による製作・発売である。

悪魔城ドラキュラ (欧米:Castlevania)
1986年9月26日 ファミリーコンピュータ ディスクシステム
198?年 VSアーケード
198?年 Amiga
1993年2月5日 ファミリーコンピュータ ROMカセット (EASYモードを搭載)
2002年2月18日(配信開始) 携帯電話 iアプリ、Vアプリ、EZアプリ (アレンジ版)
2004年8月10日 ゲームボーイアドバンス (ファミコンミニシリーズ。発売元:任天堂)
2007年7月17日(配信開始) Wii バーチャルコンソール
悪魔城ドラキュラ (MSX2版) (ヨーロッパ、ブラジル:VAMPIRE KILLER)
1986年10月30日 MSX2
ドラキュラII 呪いの封印 (欧米:Castlevania II: Simon's Quest)
1987年8月28日 ファミリーコンピュータ ディスクシステム
悪魔城ドラキュラ (アーケード版) (欧米:Haunted Castle)
1988年2月(稼動開始) アーケード
2006年5月25日 プレイステーション2 (オレたちゲーセン族シリーズ。発売元:ハムスター)
ドラキュラ伝説 (欧米:Castlevania: The Adventure)
1989年10月27日 ゲームボーイ
1997年9月25日 ゲームボーイ (コナミGBコレクションVOL.1)
悪魔城伝説 (欧米:Castlevania III: Dracula's Curse)
1989年12月22日 ファミリーコンピュータ
2006年8月1日(配信開始) 携帯電話 iアプリ
悪魔城すぺしゃる ぼくドラキュラくん (ファミコン版)
1990年10月19日 ファミリーコンピュータ
2006年6月30日(配信開始) 携帯電話 iアプリ、S!アプリ
(シリーズ番外的作品。ドラキュラの息子が主人公。コミカルな内容になっている。)
ドラキュラ伝説II (欧米:Castlevania II: Belmont's Revenge)
1991年7月12日 ゲームボーイ
1998年2月19日 ゲームボーイ (コナミGBコレクションVOL.3)
悪魔城ドラキュラ (スーパーファミコン版) (欧米:Super Castlevania IV)
1991年10月31日 スーパーファミコン
2006年12月2日(配信開始) Wii バーチャルコンソール
悪魔城すぺしゃる ぼくドラキュラくん (ゲームボーイ版) (欧米:Kid Dracula)
1993年1月3日 ゲームボーイ
(ファミコン版同名作品の続編)
悪魔城ドラキュラ (X68000版)
1993年7月23日 X68000
悪魔城ドラキュラX 血の輪廻
1993年10月29日 PCエンジン SUPER CD-ROM²
2008年4月22日(配信開始) Wii バーチャルコンソール
バンパイアキラー (北米:Castlevania: Bloodlines 欧州:Castlevania: The New Generation )
1994年3月18日 メガドライブ
悪魔城ドラキュラXX (北米:Castlevania: Dracula X 欧州:Castlevania: Vampire's Kiss)
1995年7月21日 スーパーファミコン
1997年9月30日(書き換え開始) スーパーファミコン ニンテンドウパワー
悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲 (欧米:Castlevania: Symphony of the Night)
1997年3月20日 プレイステーション (制作:コナミコンピュータエンタテインメント東京)
1998年6月25日 セガサターン (制作:コナミコンピュータエンタテインメント名古屋)
(セガサターン版はプレイステーション版の移植であるが、キャラクターやアイテムの数、部屋数、楽曲数等、追加要素が多少ある。プレイステーション版には初期版、通常版、改良版がある。)
2007年3月21日(配信開始) Xbox360 Xbox LIVE アーケード
悪魔城ドラキュラ 漆黒たる前奏曲 (欧米:Castlevania: Legends)
1997年11月27日 ゲームボーイ (制作:コナミコンピュータエンタテインメント名古屋)
悪魔城ドラキュラ黙示録 (欧米:Castlevania)
1999年3月11日 NINTENDO64 (制作:コナミコンピュータエンタテインメント神戸)
悪魔城ドラキュラ黙示録外伝 LEGEND OF CORNELL (欧米:Castlevania: Legacy of Darkness)
1999年12月25日 NINTENDO64 (制作:コナミコンピュータエンタテインメント神戸)
悪魔城ドラキュラ Circle of the Moon (欧米:Castlevania: Circle of the Moon)
2001年3月21日 ゲームボーイアドバンス (制作:コナミコンピュータエンタテイメント神戸)
悪魔城年代記 悪魔城ドラキュラ (欧米:Castlevania Chronicles)
2001年5月24日 プレイステーション
(X68000版の移植。オリジナルモードとアレンジモードがある。)
キャッスルヴァニア 白夜の協奏曲 (欧米:Castlevania: Harmony of Dissonance)
2002年6月6日 ゲームボーイアドバンス (制作:コナミコンピュータエンタテインメント東京)
キャッスルヴァニア 暁月の円舞曲 (欧米:Castlevania: Aria of Sorrow)
2003年5月8日 ゲームボーイアドバンス (制作:コナミコンピュータエンタテイメント東京)
キャッスルヴァニア (北米:Castlevania: Lament of Innocence)
2003年11月27日 プレイステーション2 (制作:コナミコンピュータエンタテイメント東京)
悪魔城ドラキュラ完全版
2004年2月18日(配信開始) 携帯電話 iアプリ、Vアプリ、EZアプリ
(ファミコン版のリメイク)
悪魔城ドラキュラ 蒼月の十字架 (欧米:Castlevania: Dawn of Sorrow)
2005年8月25日 ニンテンドーDS
悪魔城ドラキュラ 闇の呪印 (欧米:Castlevania: Curse of Darkness)
2005年11月24日 プレイステーション2、Xbox(日本未発売)
悪魔城ドラキュラ ギャラリー オブ ラビリンス (欧米:Castlevania: Portrait of Ruin)
2006年11月16日 ニンテンドーDS
Castlevania: Order of Shadows
2007年9月18日(配信開始) 携帯電話 (制作:Konami Mobile)
(北米でのみ配信のモバイルゲーム)
悪魔城ドラキュラ Xクロニクル (欧米:Castlevania: The Dracula X Chronicles)
2007年11月8日 プレイステーション・ポータブル
(「血の輪廻」のリメイク。PCエンジン版血の輪廻とプレイステーション版月下の夜想曲も同時収録。月下にはマリア追加。)
悪魔城ドラキュラ 奪われた刻印 (欧米:Castlevania: Order of Ecclesia)
2008年10月23日 ニンテンドーDS
悪魔城ドラキュラ ジャッジメント (欧米:Castlevania Judgment)
2009年1月15日 Wii
パチスロ悪魔城ドラキュラ
2009年1月
コナミのパチンコ、パチスロ部門であるKPE(コナミ・パーラー・エンタテインメント)が開発、販売するパチスロ機。
(主人公「ラルフ・C・ベルモンド」の他に「アイザック」「メデューサ」「死神」「サキュバス」が登場する他、秀逸なCGと歴代シリーズのリメイクを含めた壮大なBGMを誇る。)
また、1989年にLCDゲーム版が発売されている。開発はコナミではなく米国タイガーエレクトロニクス社、日本での輸入販売はセガ。セガ・ゲームビジョンシリーズとして「セガ キャッスルバニア」「セガ シモンズクエスト」の商品名で発売(オリジナル名はCastlevania II: Simon's Quest)。同じくタイガー社が1998年に発売したLCDゲームのCastlevania: Symphony of the Nightは日本未発売。2009年1月にはパチスロ版も登場予定である。

その他、2000年には北米のドリームキャスト向けに米国のKONAMIで制作されていたCastlevania: Resurrectionが開発中止となった。

世界観の変遷
初期の「リアルさ、硬派な雰囲気」といった世界観はシリーズが進むに従って変化していった。

1つの転機はPCエンジン版「血の輪廻」前後といえる。ゲームシステム的には従来の作品の発展型で完成度の高いものだったが、イベントシーンに挿入されるアニメ調のグラフィックや、条件を満たすと使えるプレイキャラ「マリア」のキャラクター性は賛否両論であった。

1997年の「月下の夜想曲」の発表によって、悪魔城ドラキュラは決定的な転換点を迎えることになる。RPGの要素を深め、従来の面クリア形式からメトロイドに類似したマップ探索・アイテム収集型のシステムに転換がなされた他、キャラクターデザインに小島文美を起用し、これまでと異なった耽美的な世界観を打ち出した。難易度的にも敷居が下がり、この結果多くの新規ファン獲得に成功したが、この成功によりストイックなアクションゲームから探索型のアクションRPGが主流になっていく。「月下の夜想曲」以後ゲームシステムが大きく変化し、装備やアイテム、マップ探索の要素が加わっているが、本編クリア後にマップ探索を除くこれらの要素を排除したモードが用意されている場合がある。このモードでは本編とは別のキャラクターを操り、以前のシリーズ程ではないものの、硬派なアクションを要求される。

また、作品数が増えるにつれ年表に書き出すと矛盾が生じだし、初期の『ドラキュラは100年に一度復活する』という設定は改変(完全復活しているのは100年に一度であり、その他の作品は完全復活を阻止するストーリー、らしい)され、一部の作品(「漆黒たる前奏曲」等)のストーリーは外伝扱いとされた。

シリアスでダークな世界観を貫いている本シリーズであるが、「月下の夜想曲」以降はゲーム中に時折お遊び・パロディ要素が挿入されていることもある。基本的にゲームの本筋には関わらない形での登場であるが、サブイベントから敵やアイテムの説明文など多岐にわたっている。PS2版「キャッスルヴァニア」以降の作品では、発売のたび公式サイトにおいて開発スタッフ自身(主に「しずもん」という人物が描いている)が手がけた4コマ漫画やイラストが掲載されている。

2009年01月16日

薔薇十字団(ばらじゅうじだん)

薔薇十字団(ばらじゅうじだん(独: Rosenkreuzer ローゼンクロイツ)とは、17世紀初頭のヨーロッパで話題になった集団である。

始祖クリスティアン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreuz)の遺志を継ぎ、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使して、人知れず世の人々を救うという。

起源は極めて曖昧で中世とされる。錬金術師やカバラ学者は各地を旅行したり知識の交換をしたりする必要から一種のギルドのような組織を作り、弾圧からのがれた。薔薇十字団もその地下組織の中の秘密結社のひとつだと思われる。

1614年に神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』で初めてその存在が語られ、一気に全ヨーロッパの話題をさらう。

フランセス・A・イェイツによれば、この背景に、薔薇すなわちイングランド王家を旧教ハプスブルク皇帝家の支配からの救世主として迎え入れようとする大陸諸小国の願望があった、という。なお、それから4年後の1618年にドイツを舞台とした宗教戦争「三十年戦争」が勃発している。

やがてこれが伝説化して、薔薇十字団に入団希望する者、「薔薇十字団員に会った」と言う者、果ては「自分は薔薇十字団員だ」と自称するカリオストロやサンジェルマン伯爵などの様な、怪しげな人々も現れ、世の人々を惑わせた。また、こうした事から実際に「薔薇十字団を名乗る団体」や「薔薇十字団の流れを汲むと自称する団体」などが登場しており、現在でもその傾向は続いている。

フィクション上の薔薇十字団
こうしたいきさつから、薔薇十字団は様々なフィクション作品で取り扱われている。その遇し方は様々だが、「秘密結社」という「人知れず活動する」事への「実態が不明瞭な事から来る不気味さ」や「魔法」という「一般に理解不能な未知の力のイメージ」から「主人公に対する危険な敵対組織」として描かれる場合が多い。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

登場する作品
漫画作品
ゴルゴ13(著:さいとう・たかを)
1968年頃に発表された初期作品では、ゴルゴ13を狙う暗殺集団として捉えられている。作品中の記述では「1968年以降活動の記録は無い」とある。
Weiß kreuz Glühen/ヴァイス クロイス グリ-エン(原案:子安武人)
Weißを狙う暗殺集団だけがシュワルに倒される。
D.Gray-man(作者:星野桂)
作品内のエクソシストたちが属している教団のモデル
メタルK(作者:巻来功士)
遺伝子操作によるキメラ「人間兵器(ウエポノイド)」による世界征服を目指していると思われる組織。
ミステリオン(作者:あずみ椋)
クリスチャン・ローゼンクロイツの死の原因になった主人公を時代や国を越えて追う。
ローゼンメイデン(作者:PEACH-PIT)
詳しくはローゼンメイデンの登場人物一覧を参照。

小説作品
弾丸少年(著:小林弘利)- ジュブナイル
構成員の中で最も優れていたとされる死者H.G.ウェルズを蘇生装置でたたき起こして首魁として担ぎ上げ、その意志のまま世界の滅亡を企む組織として描かれる。本来の目的は「世界を治癒」することだったが、その目的は無理矢理蘇生されたヴェルヌのために歪み「世界は治癒が不可能なまでに歪んでしまった」と判断。全てを滅ぼしてゼロにすることを目論む。その真の首魁はパラケルススであったとされる。
狂科学ハンターREI(著:中里融司)- ライトノベル
黄金の薔薇」という組織名で疑似科学を「秘宝科学」と呼称し、その技術を用いて人間を更なる次元に導く(要は世界を支配する)事を目的としている。
トリニティ・ブラッド(著:吉田直)
テロ組織「薔薇十字騎士団(ローゼンクロイツオルデン)」。通称「世界の敵(コントラ・ムンディ)」と呼ばれる。「我ら、炎によりて世界を更新せん」というスローガンのもと、各地で行動している。目的は世界の速やかなる終焉。

アニメ作品
アキハバラ電脳組
創設者のクリスチャン・ローゼンクロイツが黒幕的な役回りで登場。本編の鍵となるパタPi・ディーヴァを開発。

2009年01月09日

MC (ヒップホップ)

ヒップホップ・ミュージックでは、ラップ担当者をMC(エムシー)、またはヒップホップMCという。

ヒップホップの黎明期において、原型となったジャマイカのDJスタイルのように、MCの役割はラップのレコーディング・アーティストではなく、パーティーの進行、盛り上げ役などだったため、MC(master of ceremonies、司会者)という呼び名が当てられた。ラップを職業とするMCが増え、MCに"microphone controller"(Run-D.M.C.)や"move the crowd"(ラキム)など独自の意味を足していった。現在では単なる司会者と特に分けて、Run-D.M.C.が用いた「microphone controller」と一般解釈されている。

「ラップする者」を意味するラッパー(rapper)は、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・デライト(Rapper's Delight)」のヒットによりメディアに広められたもので、オールドスクール世代の「ラップする者」は「ラッパー」の呼称を嫌う者もいる。ヒップホップ発祥のアメリカでは、ニュー・スクール世代には「ラッパー」という呼称も最近は普通に使われ、日本でも最近では自分のことを「ラッパー」と言う「ラップする者」が多い。

MC同士がフリースタイルで相手をdisし合い、お互いのスキルを競う事をMCバトルと言う。

日本のヒップホップMC一覧
ディスク・ジョッキー
M.C.ハマー
ヴァニラ・アイス
カーティス・ブロウ
グランドマスター・メリーメル
アフリカ・バンバータ
クール・モー・ディー
ビジー・ビー
ティー・ラ・ロック
LL・クール・J
ロクサーヌ・シャンテ
グランドマスター・カズ
スリック・リック
KRS-One
MCシャン
ビースティー・ボーイズ
ラキム
ジャスト・アイス
クレイグ・ジー
KOOL G RAP
CHUCK D
ビッグ・ダディ・ケイン
MC LYTE
Ice T
アイス・キューブ
レッドマン
MF DOOM
2パック
ノトーリアス・B.I.G.
エミネム
ジェイ・Z
ナズ
50セント
ジェイダキス
キャムロン
ウォーレンG
BIG L
T.I.
日本のヒップホップMC一覧
ディスク・ジョッキー
M.C.ハマー
ヴァニラ・アイス
カーティス・ブロウ
グランドマスター・メリーメル
アフリカ・バンバータ
クール・モー・ディー
ビジー・ビー
ティー・ラ・ロック
LL・クール・J
ロクサーヌ・シャンテ
グランドマスター・カズ
スリック・リック
KRS-One
MCシャン
ビースティー・ボーイズ
ラキム
ジャスト・アイス
クレイグ・ジー
KOOL G RAP
CHUCK D
ビッグ・ダディ・ケイン
MC LYTE
Ice T
アイス・キューブ
レッドマン
MF DOOM
2パック
ノトーリアス・B.I.G.
エミネム
ジェイ・Z
ナズ
50セント
ジェイダキス
キャムロン
ウォーレンG
BIG L
T.I.

セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ